スペース・インベーダー/ゲーム

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株式会社タイトーが1978年に発売したアーケードゲーム。

 インベーダーゲームの流行によりゲームセンター(当時は「インベーダーハウス」と呼称されていた)が各地に乱立した。
 またテーブルの代わりにゲーム機(ガラスのテーブルの下に画面を付けたような形のテーブル筐体)を設置している喫茶店なども出現した。

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 しばらくして、ゲームセンターに入り浸るようになった子供らによるゲーム代欲しさの恐喝や、ゲームをするためのゲーム機そのものの盗難などが各地で起こって問題になり、「ゲームセンターは不良の温床」であるとして多くの学校が入場禁止の通達を出し、教師やPTAの父兄が巡回、補導するなどの現象が発生した。
 このことは後に1984年の風適法改正時にゲームセンターが新たに規制の対象となったことにも繋がり、家庭用ゲーム機が広く普及した現在でも、ゲームセンターやコンピューターゲームに対する偏見は未だに残っている。

 100円硬貨が最も多く鋳造されたのは1973年から1974年にかけてであるが、これはインベーダーゲームの大ブームとは無関係である。

  ☆ 当時のタイトー社員の体験談
 ・タイトー本社は平河町にあり、永田町と目と鼻の先だった。そのため、インベーダーゲームを納入するように業者から依頼された国会議員がお忍びで談判にやって来て、断るのが大変だった。
 ・喫茶店に納入後、20分で故障の連絡を受け、サービスの社員が首を傾げながらその喫茶店に行って機械を見ると、コインケースから漏れだした100円玉で機械が動かなくなっていた(つまりコインケースがいっぱいになるのに20分とかからない人気であった)。
 ・あまりの人気に、まるでマンガに出てくるような100円玉の袋(通称ドル袋)を人気店舗であれば毎日何十袋も銀行に納めに行くため、当時の社員のほとんどが腰痛持ちであった(袋いっぱいに入れれば10kgは下らない)。
 ・この為日本全国から100円硬貨が不足気味となり、大蔵省・日本銀行・造幣局もこの時期に、通常の傾向とは無関係に100円を多く鋳造するはめになった。ただし、最も多く鋳造されたのは、インベーダーブームと関係の無い1973年~1974年である。
 ・ドル袋を集金するのにとでもライトバンでは間に合わず、4トントラックで回収に回っていた。しかしその4トントラックですら間に合わず、トラックの板バネサスペンションが100円玉の重みに耐えきれず、逆に曲がってしまう故障が頻発していた。
 ・インベーダー開発時、当時の開発者西角はキャラクターをデザインするために、ブラウン管をペン状のデバイス(ライトペン)で直接描画する機械を発明した。これが実は世界で最初の今日使われているコンピューター用ペンデバイスであった。しかし当の西角曰く、「自分の作業をしやすくするための道具として作っただけ」という理由で、パテントなどを取得しなかった。

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