元日本兵・小野田寛郎30年ぶりに帰国

1970年~1979年
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「天皇陛下万歳」

1974年、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が現地を訪れ、2月20日に小野田少尉との接触に成功する。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れる事を了承する。

3月9日に嘗ての上司である谷口義美元少佐から任務解除命令が下り、小野田にとっての戦争は終わった。

翌3月10日にかけ、小野田は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をする。

小野田はフィリピン軍基地に着くとフィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。この時、小野田は処刑される覚悟だったと言われる。フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と評した。こうして小野田は30年の戦いを終え、3月12日帰国を果たした。

 帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだ事や現地住民との銃撃戦によって多数の住民が死傷した出来事が明らかになった事(フィリピン政府当局の判断により、小野田の訴追は見送っていた)、また本当に敗戦を知らなかったのかという疑問が高まるに連れて「軍人精神の権化」、「軍国主義の亡霊」といった批判が報道機関から表れた。
 父親との不仲等もあり、大きく変わった日本社会に馴染めず、帰国の半年後に次兄の居るブラジルに移住して小野田牧場を経営する事を決意。帰国後結婚した妻の町枝と共に移住し、10年を経て牧場経営を成功させた。

  その後、凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めたとして『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、『小野田自然塾』を主宰。自らの密林での経験を元に逞しい日本人を育成するとして、講演会や野営等を行い、高齢ながらも日本とブラジルを往復し続けている。
2004年12月17日、日本人として初めてサントス・ドゥモン勲章を、更に2005年11月3日、藍綬褒章を受章。

 

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「目」が戦士ですね。子供心に怖いと思いました。


 テレビドラマ化
放送:2005年8月13日(土)21:00~23:09
フジテレビ系
プレミアムステージ特別企画
終戦六十年スペシャルドラマ
『実録・小野田少尉 遅すぎた帰還』
 
 1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、部下(赤津一等兵:1949年投降、島田庄一伍長:1954年5月7日戦死、小塚金七上等兵:1972年10月19日戦死)と共に戦闘を継続し、ルパング島が再び日本軍の指揮下に戻った時の為に密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。
その為、日本では1945年9月に戦死公報を出される。
持久戦法をたて、アメリカ軍レーダー基地への襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。
使用した武器は九九式短小銃、三八式歩兵銃、蛮刀などであり、そのほか放火戦術も用いた。
地元警察との戦闘では、二人の部下を失い最後の数年は独りで密林の中で単独任務を遂行している。
手に入れたトランジスタラジオを改造し、短波受信機として活用し、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。
また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、皇太子御成婚や東京オリンピック等の日本の情勢を知った。
しかし、小野田はその日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権が在ると考えた。
また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、ベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。
このように、戦後、小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかった為に、30年間も戦い続ける結果となった。

 

 

 

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